直球感想文 別館

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カテゴリ:近代( 16 )

エーメ・デュ・ビュク

◆エーメ・デュ・ビュク
1763-1817 54歳没

ナポレオンの前妻ジョゼフィーヌのいとこエーメ・デュブックは、
小さい頃に両親を亡くしたためマルティニック島でジョゼフィーヌと姉妹のように育った。
21歳のエーメは留学先のナントの修道院の寄宿学校から帰国する途中、
乗った船が海賊に襲われる。
そして女奴隷としてトルコのスルタンのハーレムに売られてしまったエーメは
泣き暮らしながら考えた。
オダリスクと呼ばれる女たちはハーレムからは一生出られない。
出るためには次のスルタンの母となるしかない。
スルタンのアブドゥル・ハミト1世はエーメに夢中になり
1年後金髪のマフムット王子が生まれた。
しかし母と王子という親子は他に何組もいた。
どの王子が次のスルタンになるかで母の地位も決まる。
ライバルが死んだり陰謀で自滅したりで、
晴れてエーメの子マフムット王子がマフムット2世としてスルタンに即位した。
とうとうエーメは異国トルコの地で女性の最高位に上りつめたのである。
この時エーメは44歳になっていた。
マフムット2世の時代には様々な分野に西洋様式を採り入れた。

ナポレオンが子供ができないことを理由に
ジョゼフィーヌと離婚したことを聞いたエーメは激怒する。
ナポレオンのロシア遠征の際に援軍を要請されたのにも関わらず、
トルコ軍を派遣しなかったのはエーメの復讐であった。



オスマン・トルコにハーレムができたのは
新しい宮廷がイスタンブールにおかれた15世紀といわれている。
ハーレムは「禁じられた」「神聖な」という意味で、
転じて外部の者を禁ずる場所という存在となった。

ハーレムには500人ほどの女性がいたが、
略奪されたり献上されたり奴隷市場で買われたりして集まった。
女性たちは礼儀作法や手芸、歌、踊り、楽器の演奏などから
言葉づかいまで訓練を受けた。
この女性たちはカディンという。
カディンの中からスルタンの正妻となる者が選ばれる。
正妻はスルタナと呼ばれる。
しかし、ハーレムの最上位はスルタンの生母である。

オスマン・トルコが国土を拡張するにつれて通常の婚姻が不可能になってきた。
そこで血統を絶やさぬためにハーレムが必要となったのである。
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by wMUGIw | 2017-01-04 00:00 | 近代

アンクロワイヤーブルとメルヴェイユーズ

フランス革命後のパリに異様な格好をした若者が現れた。
究極の洗練とは病弱なことであるとの考えのもとに、
男性は病み上がりのように髪はボサボサ、
首元には何重にもスカーフを巻き、人によっては口元まで隠していた。
近眼も病弱の一つと眼鏡をアクセサリーにし、ステッキではなく棍棒を持って歩いた。
何かと言うと「アンクロワイヤーブル!」(信じられない!)が口癖だったため、
彼らのことをアンクロワイヤーブルと呼ぶようになった。

対する女性の方は健康的というか健康的すぎるというか、
ギリシャ・ローマ時代をお手本にした透き通る布地で作ったドレス、
早い話がシュミーズ姿で歩き回った。
ついこの間までアントワネットを代表とするコルセットにパニエ、
天に届く髪型が主流だったが、
彼女たちはコルセットも下着も脱ぎ捨ててしまい、
シースルーのドレスでは丸見えの状態だった。
こちらは「素晴らしい!」というわけで「メルヴェイユーズ」と呼ばれた。


200年前の不良の男女
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前のめりに歩いてるのは病弱の演出?
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by wMUGIw | 2016-01-13 00:00 | 近代

エンパイアスタイル

フランス革命後、衣装は一変した。
ナポレオンによる帝政時代に当たるためエンパイアスタイルと呼ばれる。
ギリシャ・ローマ時代に着想を得ているため、
ゴテゴテの派手派手だったアントワネットのドレスから
シースルーのシュミーズ、つまり下着が公然と着られるドレスになったのである。
シュミーズの下はコルセットも下着もつけなかったので、痴漢が横行したという。

その上、冬でもこのドレスを着るのだ。
インフルエンザが流行すると多くの女性が亡くなった。
おしゃれも命がけである。


モデルはレカミエ夫人です。
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by wMUGIw | 2016-01-13 00:00 | 近代

召使いの名前

基本的に、使用人はファーストネームを呼び捨てされる。
ハウスキーパー(家政婦)とコック(女料理人)は、
未婚既婚に関係なくファミリーネームにミセスを付けて呼ばれる。
ガヴァネス(女家庭教師)は、ファミリーネームにミスを付けて呼ばれる。
レディーズメイド(小間使い)とパーラーメイド(客間女中)などの上級使用人は、
ファミリーネームのみで呼ばれる。

使用人には使用人らしい名前というものがあり、
本名がゴージャス過ぎる場合は無視して御家族が勝手に決めた。

メイドとして正しいファミリーネームとは、
スミスやジョーンズといった、イギリスでもっとも多いファミリーネームである。

そしてメイドとして正しいファーストネームとは、
メアリー、ジェーン、マーサなど、18世紀以前からある伝統的なファーストネームである。

役職ごとに固定の名前を決めているお屋敷もあった。
メイド頭は常にエミリー、その下はジェーン、
コックはシャーロットで、キッチンメイドはメアリーという風に。

男性の場合も同じく、
チャールズ、ジェイムズ、ジョン、ジョン・トマスなどと呼ばれるのが普通だった。
何人もの同じ役職の使用人がいる場合は、
第一使用人をチャールズ、次はジェイムズ、次はジョンとする。
それゆえ本名チャールズなのにジョンと変えられたりすると最初は混乱したそうだ。
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by wMUGIw | 2016-01-10 00:00 | 近代

ファッションプレート

18世紀、流行のファッションは蝋人形で届いた。
上流階級には服屋から最新ファッションを身に着けた小さな蝋人形が届く。
蝋人形は最新ファッションをまとっている。
つまりこれは<カタログ>なのである。

しかしブルジョワ階級の勃興により沢山のカタログを送る必要に迫られた。
そこで蝋人形に代わる見本として印刷物がとって替わった。
ファッション・プレートの誕生である。

これまでファッションの発信地はイタリア、オランダ、イギリス、ロシア・・・と
様々であり、一国が独占することはなかった。
しかしファッション・プレートの誕生により、
フランスがヨーロッパのモードを支配するようになったのである。

それまでにも衣装に関するプレートは存在した。
しかしそれは王族などの衣装の記録や、民族の風俗・衣装の記録版画であり、
新しい流行を知らせるものではなかった。

そこで18世紀までの物はコスチューム・プレートと呼ばれ、
それ以降の物はファッション・プレートと呼ばれる。

このファッション・プレートは19世紀末で無くなっていくが、
ファッション・ブックやファッション・マガジンに発展していく。


当時の風俗もわかる
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男性服の流行もわかる
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子供服の流行もわかる
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ドレスの前と後がどのようになっているのかがわかる
(当時既製品は存在しませんから、仕立屋さんに頼む時にも自分で作る時にも必要)
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by wMUGIw | 2016-01-08 00:00 | 近代

バッスル

バッスルは19世紀後期に流行ったシルエット。
日本では明治の鹿鳴館の時代にあたる。

以下のような張り型でこのシルエットを作る。
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初期は比較的なだらかなラインでしたが
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最終的にここまでふくれました
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一時は円柱みたいなラインも登場しました。とても歩きにくかったそうです。
確かにコケたらどうやって立ち上がればいいのか・・・。
ま、貴婦人は絶対に一人で外出したりしませんでしたから大丈夫だったのでしょう。
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by wMUGIw | 2016-01-07 00:00 | 近代

クリノリン

クリノリンは19世紀中期に流行った巨大なドーム型のシルエット。

以下のような張り型でこのシルエットを作る。

3枚目のメイドをご覧下さい。柱に自分をくくりつけて着付けに挑んでおります。
犬もあきれ顔。
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クリノリンが引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火したり、
事故も多発した。
年間20,000人が事故に遭い、年間3,000人が死亡したと言われる。
おしゃれに賭ける情熱恐るべし。


風刺画
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風刺画
スカートが広すぎて届かないので、
炉端焼きの大きなしゃもじのようなもので給仕している
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by wMUGIw | 2016-01-06 00:00 | 近代

ベルト・モリゾの娘

◆ジュリー・マネ 
1878-1966 88歳没

ジュリー・マネは女流画家ベルト・モリゾと
モネの弟ウジェーヌ・モネ夫妻の一人娘である。
両親のサロンには様々な画家たちが集まった。

印象派の仲間としてルノワールを支えてくれたモリゾの夫ウジェーヌが亡くなった。
その後、母モリゾも喪って孤児となった16歳のジュリーの後見人を
ルノワール、ドガ、マラルメが務めた。

そして22歳の時、画家のエルネスト・ルアールと結婚した。


ルノワール 『ジュリー・マネ』 1887年
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ルノワール 『ベルト・モリゾとジュリー』 1894年
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左側エルネスト&ジュリー夫妻 
右側ポール・ヴァレリー&ジュリーのいとこジャニ・ゴビヤール夫妻
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by wMUGIw | 2015-03-08 00:00 | 近代

ベルト・モリゾ

マネ 『バルコニー』 1868年 座っている女性がベルト
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◆ベルト・モリゾ 
1841-1895 54歳没


■夫 マネの弟 ウジェーヌ・マネ
1833-1892 59歳没


ベルト・モリゾは高級官僚の娘で画家を目指していたが、それは容易なことではなかった。
女性が外で働くことさえ稀な時代であり、国立美術学校も女性の入学を認めていなかった。
女性たちはルーヴル美術館で模写をしながら絵を学んでいたのである。
そんな彼女に、マネがモデルになってほしいと声をかける。
ベルトはこれをきっかけに絵画の教えを受けようとしたが、
マネは彼女をモデルに次々と傑作を生み出すのみであった。

マネはベルトに自分の画風を見習うように強制した。
黒を基調とするマネに対して、ベルトは全体的に白い色調で柔らかな絵を描いたからだ。
さらにベルトがサロンに出店するために描いた
『モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人』をマネは描き直した。
この絵は入選を果たしたが、川に身を投げた方がましと彼女は言った。

彼女は師を離れて印象派に参加する。
そしてマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚し、夫の支えで次々と作品を生み出して行った。

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by wMUGIw | 2015-03-07 00:00 | 近代

ユトリロの母

◆シュザンヌ・ヴァラドン 
1865-1938 73歳没

シュザンヌは洗濯女の私生児として生まれた。
母とともにパリへ移り住み絵のモデルになる。
美しいヴァラドンはモンマルトルの画家たちと奔放に恋愛し、
18歳で父親がわからない息子ユトリロを生む。

一流の画家に接することによって、彼女もまた画家を目指すようになった。
当時女性がヌードを描くことは挑発的だと非難されたが、
彼女はひるむことなく自分のテーマを追い続けた。
彼女のヌードからはエロティシズムよりも生の身体の迫力が伝わってくる。

ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで
息子に絵画の才能があるとは思っておらず、
また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、
互いに影響を受けることなく独自の画風を確立している。

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by wMUGIw | 2015-03-06 00:00 | 近代


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