直球感想文 別館

2017年 更新中
by wMUGIw
カテゴリ
古代
中世
近世
近代
現代
その他
以前の記事

<   2014年 01月 ( 11 )   > この月の画像一覧

マタ・ハリ

芸名 マタ・ハリ(マレー語で太陽の意味)
本名 マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ
1867-1917 50歳没 

*第一次世界大戦中ドイツ側スパイとして処刑

裕福なオランダ人の両親のもとに生まれたが、父が事業に失敗して一家離散となる。
19歳の時、新聞広告で花嫁を募集していた
11歳年上のオランダ人将校ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚、
オランダ領であったジャワに赴任する。

c0297671_01540884.jpg

c0297671_01554048.jpg

2人の子供をもうけるが7年後に離婚、
パリにやってきたマルガレータは、
ジャワ出身の踊り子マタ・ハリと名乗り、一世を風靡する。
ほとんどストリップショーのようなものであったが、胸だけは絶対に見せなかった。
乳房が垂れているのが欠点だったからである。

c0297671_01564493.jpg
c0297671_01565653.jpg
c0297671_01570854.jpg

当時のダンサーは高級娼婦とイコールであり、
軍服好きのマタ・ハリは特に軍人を好んだ。
フランス軍人・ドイツ軍人を始め各国の軍人と関係を持つにつれ、
スパイとして利用されることになる。
コードネームは「H1」であったが、大した働きをしたわけではなかった。
右から聞いたことを左へ、左から聞いたことを右へ、
スパイという立場に酔って囁いただけである。
しかしフランス・ドイツ両軍人と関係を持っていたマタ・ハリは二重スパイを疑われ、
パラス・ホテルの自室で朝食中に逮捕される。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
逮捕状 
マルガレータ・ツェレ、別名マタ・ハリ、
外国人、オランダ生まれ、宗教プロテスタント、身長175センチ、
スパイ行為において敵国に通じ作戦に加担したとして告発する。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1917年02月13日マタ・ハリはパリ裁判所に連行され、
4ヶ月後の10月15日早朝処刑された。

c0297671_01571804.jpg
c0297671_01572729.jpg
c0297671_02030215.jpg


[PR]
by wMUGIw | 2014-01-11 00:00 | 近代

メイドとジェントルマンの恋

ヴィクトリア時代にメイドとジェントルマンが結婚したケースがあった。
これだけ聞くとロマンスだが、この二人には裏があった。
裏というより奥行きかもしれない。
身分違いの恋、マニア、フェチ、覗き、SM、コスプレ、トランスジェンダー…
二人の関係には様々な要素が含まれている。


◆アーサー・ジョセフ・マンビー 
1828-1910 82歳没
c0297671_1561531.jpg



アーサーはアッパー・ミドル・クラスに生まれ、ケンブリッジ大学を卒業して法廷弁護士となった。
二十代の頃から、趣味として女性労働者の生活や写真を収集していた。
当時蔑まれていた女性労働者に尋常ではない関心を抱き、
彼女たちの労働内容、服装、人格を毎日執拗に記録していた。
労働者階級の女たちを観察したいという欲求のためだけにフランスに出かけたこともあった。
街で女性に気安く話しかけるという習慣が災いして、
切り裂きジャックの疑いをかけられたこともあった。
この趣味は家族も友人も誰一人知る者はなかった。


◆ハナ・カルウィック 
1833–1909 76歳没
c0297671_1563549.jpg



ある日、アーサーは黒いボンネットを被った長身で姿勢の良い女性を見かけ話しかけた。
彼女の名はハナ・カルウィック、8歳からメイドとして働いてきた女性だ。
アーサー25歳、ハナ20歳の時のことだった。

二人はアーサーの部屋で秘密の時間を過ごすようになる。
しかしこれは大変危険なことだった。
当時、身分違いの恋愛は、アーサーにとってもハナにとっても、
解雇されても当然のタブーだったのである。
しかし、二人は密室でファンタジーを楽しんだ。

ハナは外出着ではなく汚れた雑役女中の服を着て、
彼の足もとに跪いてブーツを舌できれいにした。
ハナがいろいろな女性や男性に扮したコスプレ写真も撮っている。
ハナがアーサーを持ち上げて部屋を歩き回ったりもした。
ハナは手首に奴隷のバンドを巻き、首には鍵付きの首輪をしていた。
二人は一緒のときは部屋でプレイし、離れている時には日記でプレイをした。
時には、アーサーは勤め先でハナが玄関回りを四つんばいになって掃除しているところを
見に来たりした。


メイド
c0297671_1564936.jpg


貴婦人
c0297671_157844.jpg


男装
c0297671_1571969.jpg


煙突掃除夫
c0297671_1572980.jpg


聖女
c0297671_1573852.jpg


アーサーはこうした携帯型アルバムの左右に
ハナの対照的な写真を入れて持ち歩いていた
c0297671_1575068.jpg

c0297671_158064.jpg



19年後二人は、アーサー44歳、ハナ39歳の時に結婚したが、ハナは乗り気ではなかった。
秘密の結婚式を挙げ、フランスでのハネムーンから戻ると、
ハナは貴婦人のドレスを脱ぎ再びメイドを続けた。
それはアーサーの希望でもあった。

後に一時同居したこともあったが、うまくいかなかった。
ファンタジーと日常生活の両立が難しかったのだろう。
ハナは田舎に移った。
お互いに行き来はあったが、生涯別居のままであった。
二人の関係は死が二人を分かつまで50年に及んだ。


c0297671_1591592.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-10 00:00 | 近代

油絵と旅する男

ゲインバラ 『デボンシャー公爵夫人ジョルジアーナ』 1787年
c0297671_21454.jpg



1876年、オークションにかけられたこの絵は、ある画廊に落札される。
しかし何者かがこの絵を画廊から盗んだ。
犯人はアダム・ワース。列車強盗や銀行強盗の常習犯だった。
しかし、この絵を盗んだ後、彼の消息はプッツリ途絶える。

16年後、列車強盗に失敗したワースは逮捕される。
彼はこの絵について口を割らず、7年の刑に服した。
それから2年後、死期を悟ったワースは、この絵を持ち主に返した。

彼はこの絵の夫人に恋をしてしまったのだ。彼はこの絵を肌身離さず持ち歩いていた。
「私の25年は公爵夫人との駆け落ちだった」
ワースの最期の言葉だった。
[PR]
by wMUGIw | 2014-01-09 00:00 | 近代

ベルト・モリゾの娘

◆ジュリー・マネ 
1878-1966 88歳没

ジュリー・マネは女流画家ベルト・モリゾと
モネの弟ウジェーヌ・モネ夫妻の一人娘である。
両親のサロンには様々な画家たちが集まった。

印象派の仲間としてルノワールを支えてくれたモリゾの夫ウジェーヌが亡くなった。
その後、母モリゾも喪って孤児となった16歳のジュリーの後見人を
ルノワール、ドガ、マラルメが務めた。

そして22歳の時、画家のエルネスト・ルアールと結婚した。


ルノワール 『ジュリー・マネ』 1887年
c0297671_344737.jpg


ルノワール 『ベルト・モリゾとジュリー』 1894年
c0297671_345696.jpg



c0297671_35779.jpg


左側エルネスト&ジュリー夫妻 
右側ポール・ヴァレリー&ジュリーのいとこジャニ・ゴビヤール夫妻
c0297671_351991.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-08 00:00 | 近代

ベルト・モリゾ

マネ 『バルコニー』 1868年 座っている女性がベルト
c0297671_2562357.jpg



◆ベルト・モリゾ 
1841-1895 54歳没


■夫 マネの弟 ウジェーヌ・マネ
1833-1892 59歳没


ベルト・モリゾは高級官僚の娘で画家を目指していたが、それは容易なことではなかった。
女性が外で働くことさえ稀な時代であり、国立美術学校も女性の入学を認めていなかった。
女性たちはルーヴル美術館で模写をしながら絵を学んでいたのである。
そんな彼女に、マネがモデルになってほしいと声をかける。
ベルトはこれをきっかけに絵画の教えを受けようとしたが、
マネは彼女をモデルに次々と傑作を生み出すのみであった。

マネはベルトに自分の画風を見習うように強制した。
黒を基調とするマネに対して、ベルトは全体的に白い色調で柔らかな絵を描いたからだ。
さらにベルトがサロンに出店するために描いた
『モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人』をマネは描き直した。
この絵は入選を果たしたが、川に身を投げた方がましと彼女は言った。

彼女は師を離れて印象派に参加する。
そしてマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚し、夫の支えで次々と作品を生み出して行った。

c0297671_2565159.jpg

c0297671_2565965.jpg

c0297671_257913.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-07 00:00 | 近代

ユトリロの母

◆シュザンヌ・ヴァラドン 
1865-1938 73歳没

シュザンヌは洗濯女の私生児として生まれた。
母とともにパリへ移り住み絵のモデルになる。
美しいヴァラドンはモンマルトルの画家たちと奔放に恋愛し、
18歳で父親がわからない息子ユトリロを生む。

一流の画家に接することによって、彼女もまた画家を目指すようになった。
当時女性がヌードを描くことは挑発的だと非難されたが、
彼女はひるむことなく自分のテーマを追い続けた。
彼女のヌードからはエロティシズムよりも生の身体の迫力が伝わってくる。

ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで
息子に絵画の才能があるとは思っておらず、
また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、
互いに影響を受けることなく独自の画風を確立している。

c0297671_2515379.jpg

c0297671_252544.jpg

c0297671_2521495.jpg

c0297671_2522310.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-06 00:00 | 近代

ミレイの妻

◆ユーミフィア/エフィ・グレイ 
1828-1897 69歳没

c0297671_2471978.jpg

c0297671_247334.jpg





■前夫 ジョン・ラスキン 
1819-1900 81歳没

c0297671_2474849.jpg





■後夫 ジョン・エヴァレット・ミレー 
1829-1896 67歳没

ユーフィミアは離婚訴訟を起こした。
しかし、ヴィクトリア時代の社会はユーフィミアを非難した。
一大スキャンダルとなったが、なんとか離婚が成立した。
そしてミレーとユーフィミアは結婚する。
そして8人もの子供が生まれた。

ラスキンの方は、39歳の時に10歳の少女に求婚したりした。

ちなみにラスキンはオックスフォードの教授だった時、
同僚のルイス・キャロルと親しかったそうだ。
類は友を呼ぶ…

c0297671_248323.jpg

c0297671_2481285.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-05 00:00 | 近代

カミーユ・クロデール

◆カミーユ・クロデール 
1864-1943 79歳没

カミーユは彫刻家ロダンの弟子だった。カミーユ19歳、ロダン42歳。
やがて二人は愛し合うようになるが、
ロダンには内縁の妻ローズがいたため三角関係となる。
この三角関係は15年続いた。

ロダンはどちらかを選ぶことができなかった。
カミーユが妊娠し中絶したのをきっかけに二人の関係は破綻し、ロダンは妻の元へ帰った。

c0297671_2421326.jpg

c0297671_2422771.jpg

カミーユ・クローデル 『分別盛り』 1913年 
妻を思わせる老婆に寄り添われ、カミーユを思わせる女を振り切る男の姿
c0297671_2423995.jpg



ロダンの弟子だった頃、彼女は自分自身の作品を作らなかった。
すべてをロダンの作品につぎ込んだのだ。
ゆえに当時のロダンの作品は共作と呼ばれるものなのだが、
もちろんロダンはそんなことは言わない。

独り立ちしたカミーユを待っていたのは、
何を作ってもロダンの物真似と思われることだった。


カミーユ・クローデル 『シャクンタラー』 1905年 
c0297671_2425892.jpg


ロダン 『永遠の偶像』 1889年
c0297671_2431039.jpg



やがて彼女は精神を蝕まれ40代で発狂する。
そして精神病院から出ることなく78歳で亡くなった。

精神を病んでからのカミーユは多くの作品を破壊した。
そして「ロダンが私のアイディアを盗みに来る」というのが口癖だったという。
[PR]
by wMUGIw | 2014-01-04 00:00 | 近代

モリスの妻

ロセッティ 『プロセルピナ』 1874年
c0297671_2355489.jpg


プロセルピナはローマ神話の女神。ギリシャ神話ではペルセポネと呼ばれる。
冥界の果物ザクロを口にしたため冥界の王の花嫁となる。
その結果、一年の半分を冥界で半分を地上で暮らすこととなる。

ヴィクトリア時代の画壇に新風を巻き起こしたのが「ラファエロ前派兄弟団」である。
ラファエロの描く形式的で優美な絵ではなく、
ラファエロ以前の初期イタリアルネッサンス絵画に戻ろうとする運動だった。

ラファエロ前派のメンバーの好みは、
社会的階級が低く充分な教育を受けていない娘を街で拾い、
立派なレディに育て上げて結婚するという傾向があった。
いわゆるピグマリオンコンプレックスである。
事実『マイ・フェア・レディ』の原作『ピグマリオン』を書いたバーナード・ショーも
ラファエロ前派と交流があった。




★ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 
1828-1882 54歳没

この絵のモデル ジェーン・バーデンはラファエロ前派の画家ロセッティに見いだされた。
当時の美女とは小柄で丸顔明るく可愛らしい女性のことだった。
しかしジェーンはまったく逆の容姿をしていた。
ギリシャ風の顔、大柄な身体、大きな手、コンプレックスの塊であったが
ロセッティが美しいと褒め称えた。
物憂げな眼差し、官能的な唇、燃えるような髪。
19世紀のイギリスでは長い髪は女性の罪の象徴だとされ、
人前で髪をほどくことは許されなかった。
やがて彼女は美貌のモデルとして有名になる。

c0297671_2361446.jpg





■ウィリアム・モリス 
1834-1896 62歳没

そして「モダンデザインの父」と言われるウィリアム・モリスの妻となる。
ジェーンの結婚後もロセッティは彼女をモデルに絵を描き続けた。
ジェーンとロセッティは不倫関係にあった。
関係を知ったモリスは、妻を失いたくなかったため取り決めをした。
一年の半分をモリスと、半分をロセッティを過ごすというものだった。
この三角関係はロセッティの死によって終わるが、
モリスは二人を非難する言葉を一切残していない。

c0297671_2363332.jpg





◆ジェーン・バーデン 
1839-1914 75歳没

彼女は無口な女性だった。
それが彼女をいっそうミステリアスに見せていたのだが、
実は教育を受けてないこと、発音が上品でないことがジェーンを無口にさせていたのだ。
二人の娘を生んだが、彼女は夫を愛したことはなかったと友人に語っている。

もし彼女が同じ階級の男性と結婚していたら、笑顔とおしゃべりを見せていたのだろうか。

c0297671_2365536.jpg
c0297671_237320.jpg

c0297671_2371462.jpg

[PR]
by wMUGIw | 2014-01-03 00:00 | 近代

エーメ・デュ・ビュク

◆エーメ・デュ・ビュク
1763-1817 54歳没

ナポレオンの前妻ジョゼフィーヌのいとこエーメ・デュブックは、
小さい頃に両親を亡くしたためマルティニック島でジョゼフィーヌと姉妹のように育った。
21歳のエーメは留学先のナントの修道院の寄宿学校から帰国する途中、
乗った船が海賊に襲われる。
そして女奴隷としてトルコのスルタンのハーレムに売られてしまったエーメは
泣き暮らしながら考えた。
オダリスクと呼ばれる女たちはハーレムからは一生出られない。
出るためには次のスルタンの母となるしかない。
スルタンのアブドゥル・ハミト1世はエーメに夢中になり
1年後金髪のマフムット王子が生まれた。
しかし母と王子という親子は他に何組もいた。
どの王子が次のスルタンになるかで母の地位も決まる。
ライバルが死んだり陰謀で自滅したりで、
晴れてエーメの子マフムット王子がマフムット2世としてスルタンに即位した。
とうとうエーメは異国トルコの地で女性の最高位に上りつめたのである。
この時エーメは44歳になっていた。
マフムット2世の時代には様々な分野に西洋様式を採り入れた。

ナポレオンが子供ができないことを理由に
ジョゼフィーヌと離婚したことを聞いたエーメは激怒する。
ナポレオンのロシア遠征の際に援軍を要請されたのにも関わらず、
トルコ軍を派遣しなかったのはエーメの復讐であった。



オスマン・トルコにハーレムができたのは
新しい宮廷がイスタンブールにおかれた15世紀といわれている。
ハーレムは「禁じられた」「神聖な」という意味で、
転じて外部の者を禁ずる場所という存在となった。

ハーレムには500人ほどの女性がいたが、
略奪されたり献上されたり奴隷市場で買われたりして集まった。
女性たちは礼儀作法や手芸、歌、踊り、楽器の演奏などから
言葉づかいまで訓練を受けた。
この女性たちはカディンという。
カディンの中からスルタンの正妻となる者が選ばれる。
正妻はスルタナと呼ばれる。
しかし、ハーレムの最上位はスルタンの生母である。

オスマン・トルコが国土を拡張するにつれて通常の婚姻が不可能になってきた。
そこで血統を絶やさぬためにハーレムが必要となったのである。
[PR]
by wMUGIw | 2014-01-02 00:00 | 近代


お気に入りブログ
検索
記事ランキング
その他のジャンル